2009.02.07 Saturday
哲学科とアーティストとしての私
この度、母校である國學院大學の哲学会が発行している会報の最新号(第37号)に執筆する機会をいただきました。
以下その原稿、『哲学科とアーティストとしての私』全文です。
私は2000年4月に哲学科に入学し、2004年3月に同科を卒業しました。在学中から絵を描き、発表し続けています。
もともと幼少時から絵を描くのが好きでしたが、高校生の時に、漠然と芸術関係の職業を考えるようになりました。そこで美術大学の受験予備校を見学しますが、その見学によって美術大学の受験をやめました。それは、受験の為の絵を描かされている事実を観て失望し、自分が好きな時に好きな絵を自由に描きたい、と感じたからだと思います。そして一年間浪人した後、晴れて國學院大學文学部哲学科に入学することになります。哲学科を選んだのは、先に他の大学の哲学科に在学していた兄の影響と、自分の名前・哲(さとし)が自然と導いたのだと思います。二年生くらいまでは哲学と美学どちらのコースの授業もほぼ同じくらいの興味を抱いて受けていましたが、三年生前後からアーティストとしての活動が活発になると、次第に美学への興味のほうがより強くなりました。
20世紀の近現代美術、特にドイツ美術については宮下誠教授、戦後アメリカ美術については谷川渥教授にご教授いただきました。その中でも宮下先生のご専門、パウル・クレーやフランツ・マルクについて、彼らの作品や宮下先生のご教授、書籍から多くを学び、自分の作品に反映させ、大学で学んだことを糧にしながら制作しています。クレーの「小宇宙的世界観」や子供のような純粋な表現などは、現代日本人である私にも深く共感させます。何でも小さくする日本人、小さいものに美を感じる日本人、そのような感覚を持った自分の作品も自然と小さいサイズになっています。私は敬愛するクレーの作品に小宇宙を感じるのと同じように、という思いも込めて、最近の作品群のタイトルを『小宇宙少女』としています。この「小宇宙的世界観」についてはまた機会のある時にどこかで詳しく述べたいですが、先ずは私の作品を直に観て感じとって頂けたら幸いです。
さて、アーティストとしての具体的なキャリアについてお話ししますと、まず在学中にアーティスト村上隆さん主催のアートフェア「GEISAI」に出展しました。そこでスカウト審査員の小山登美夫ギャラリーに賞をいただき、同ギャラリーにて初の個展を行ない、アーティストとしてデビューしました。それまでは漠然と絵を描いて生きていきたい、と考えていましたが、それを機に現代アートの世界に足を踏み入れることになりました。多くのアーティストや評論家、美術館学芸員、ギャラリスト、編集者などさまざまなアート関係者だけでなく、一般の鑑賞者やコレクターと出会い、肌でいろいろなことを実感していくこととなります。その後同ギャラリーで作品を取り扱っていただいたり、GEISAIの同ギャラリーブースで展示させていただいたりしました。
大学卒業後、2006年にリクルート主催の公募展「ひとつぼ展」に入選・出展しました。2007年には東京都主催の公募展「ワンダーシード」に入選・出展し、ギャラリーhiromiyoshiiのオーナー吉井仁実さんがディレクターを務めている六本木のギャラリーT&G ARTSでのグループ展に出展しました。公募や展示を通して感じること・学ぶことや、様々な方々との出会いは自分にとってかけがえのないことですが、グラフィックデザイナーの相島大地さんとの出会いは格別です。2007年後半から彼と共にアニメーション作品を制作したり、コラボレーション作品のみでニ人展をしたり、と新しいことを多々試みることができ、彼との共同作業は有意義で、実のあるものになっています。彼とは今後も何か共に制作することで、お互いにアーティストとして高め合うことができるでしょう。
ところで、現代アートの最近の展開を見てみますと、東西冷戦崩壊後、90年代にアートの中心はほぼなくなったに等しく、多文化主義の時代に突入しています。その後9.11同時多発テロが起こり、21世紀の今、アート業界はこれまでにない程混沌としています。また、ここ数年世界のアート業界は空前のアートバブルで、世界各地で催されているアートフェアやオークションは大きく盛り上がっていました。私は2006年末にマイアミのアートフェアを観に行き、その盛り上がり振りや欧米(本場)の巨大なアート業界の底の深さを垣間見て驚嘆しました。多文化主義以降であっても、欧米に出て行って修行・活動すべきだと感じましたし、日本のアート業界が徐々に成長している事実はあっても、さらなる発展のためには業界全体が一致団結し活発に相乗効果を及ぼし続けることが必要不可欠であると思いました。特に中国を中心としたアジアのアート業界は世界の中でもとてつもない早さで成長しています。ところがこのような進展の最中に、2008年の秋には世界中が金融危機に直面し、アート業界もその影響を受け、バブルが弾け始めているようです。このように更に混沌とした状況で自分の表現を突き詰めて活動していくのは容易ではありません。
クレーはマルクという友、カンディンスキーという兄を持ち、晩年までじっくりと根源的なものを探し表現し続けました。今私は、混沌とした時代だからこそ、先人の思想や方法論に学び、友情や師弟関係を大切にしながら、少しずつでも根源的な「何か」を探し表現し続けています。宮元啓一教授のご指導の元書いた大学の卒業論文のタイトルは、『世界美術史という見方』でした。前半は世界史から西洋美術史、東洋美術史を踏まえて論じ、後半は現代美術、特に日本の現代美術についてまとめました。根源的な「何か」を見出す指針は、大学時代に培われ、この卒論にまとめられた礎の上にあります。そして、今回はその卒論の続きを随筆としてまとめましたが、こうして卒業後の発展についても継続的に発表の場を与えてくださる母校には、重ねて感謝の念が耐えません。
私のアーティストとしての人生は始まったばかりです。これから、今まで以上に大きな困難が幾度も待ち構えているでしょう。私と同世代のアーティストは数多くいても、同世代のアート関係者はまだまだ数少ないです。未来のアート業界をつくっていく若い世代の時代はこれからです。大学で恩師から学んだことや、卒業後も引き続き学び続けていることを糧にしながら、自分なりに現代日本人としてのリアルな表現を突き詰めていこうと考えています。
2008年12月3日 長田 哲
以下その原稿、『哲学科とアーティストとしての私』全文です。
私は2000年4月に哲学科に入学し、2004年3月に同科を卒業しました。在学中から絵を描き、発表し続けています。
もともと幼少時から絵を描くのが好きでしたが、高校生の時に、漠然と芸術関係の職業を考えるようになりました。そこで美術大学の受験予備校を見学しますが、その見学によって美術大学の受験をやめました。それは、受験の為の絵を描かされている事実を観て失望し、自分が好きな時に好きな絵を自由に描きたい、と感じたからだと思います。そして一年間浪人した後、晴れて國學院大學文学部哲学科に入学することになります。哲学科を選んだのは、先に他の大学の哲学科に在学していた兄の影響と、自分の名前・哲(さとし)が自然と導いたのだと思います。二年生くらいまでは哲学と美学どちらのコースの授業もほぼ同じくらいの興味を抱いて受けていましたが、三年生前後からアーティストとしての活動が活発になると、次第に美学への興味のほうがより強くなりました。
20世紀の近現代美術、特にドイツ美術については宮下誠教授、戦後アメリカ美術については谷川渥教授にご教授いただきました。その中でも宮下先生のご専門、パウル・クレーやフランツ・マルクについて、彼らの作品や宮下先生のご教授、書籍から多くを学び、自分の作品に反映させ、大学で学んだことを糧にしながら制作しています。クレーの「小宇宙的世界観」や子供のような純粋な表現などは、現代日本人である私にも深く共感させます。何でも小さくする日本人、小さいものに美を感じる日本人、そのような感覚を持った自分の作品も自然と小さいサイズになっています。私は敬愛するクレーの作品に小宇宙を感じるのと同じように、という思いも込めて、最近の作品群のタイトルを『小宇宙少女』としています。この「小宇宙的世界観」についてはまた機会のある時にどこかで詳しく述べたいですが、先ずは私の作品を直に観て感じとって頂けたら幸いです。
さて、アーティストとしての具体的なキャリアについてお話ししますと、まず在学中にアーティスト村上隆さん主催のアートフェア「GEISAI」に出展しました。そこでスカウト審査員の小山登美夫ギャラリーに賞をいただき、同ギャラリーにて初の個展を行ない、アーティストとしてデビューしました。それまでは漠然と絵を描いて生きていきたい、と考えていましたが、それを機に現代アートの世界に足を踏み入れることになりました。多くのアーティストや評論家、美術館学芸員、ギャラリスト、編集者などさまざまなアート関係者だけでなく、一般の鑑賞者やコレクターと出会い、肌でいろいろなことを実感していくこととなります。その後同ギャラリーで作品を取り扱っていただいたり、GEISAIの同ギャラリーブースで展示させていただいたりしました。
大学卒業後、2006年にリクルート主催の公募展「ひとつぼ展」に入選・出展しました。2007年には東京都主催の公募展「ワンダーシード」に入選・出展し、ギャラリーhiromiyoshiiのオーナー吉井仁実さんがディレクターを務めている六本木のギャラリーT&G ARTSでのグループ展に出展しました。公募や展示を通して感じること・学ぶことや、様々な方々との出会いは自分にとってかけがえのないことですが、グラフィックデザイナーの相島大地さんとの出会いは格別です。2007年後半から彼と共にアニメーション作品を制作したり、コラボレーション作品のみでニ人展をしたり、と新しいことを多々試みることができ、彼との共同作業は有意義で、実のあるものになっています。彼とは今後も何か共に制作することで、お互いにアーティストとして高め合うことができるでしょう。
ところで、現代アートの最近の展開を見てみますと、東西冷戦崩壊後、90年代にアートの中心はほぼなくなったに等しく、多文化主義の時代に突入しています。その後9.11同時多発テロが起こり、21世紀の今、アート業界はこれまでにない程混沌としています。また、ここ数年世界のアート業界は空前のアートバブルで、世界各地で催されているアートフェアやオークションは大きく盛り上がっていました。私は2006年末にマイアミのアートフェアを観に行き、その盛り上がり振りや欧米(本場)の巨大なアート業界の底の深さを垣間見て驚嘆しました。多文化主義以降であっても、欧米に出て行って修行・活動すべきだと感じましたし、日本のアート業界が徐々に成長している事実はあっても、さらなる発展のためには業界全体が一致団結し活発に相乗効果を及ぼし続けることが必要不可欠であると思いました。特に中国を中心としたアジアのアート業界は世界の中でもとてつもない早さで成長しています。ところがこのような進展の最中に、2008年の秋には世界中が金融危機に直面し、アート業界もその影響を受け、バブルが弾け始めているようです。このように更に混沌とした状況で自分の表現を突き詰めて活動していくのは容易ではありません。
クレーはマルクという友、カンディンスキーという兄を持ち、晩年までじっくりと根源的なものを探し表現し続けました。今私は、混沌とした時代だからこそ、先人の思想や方法論に学び、友情や師弟関係を大切にしながら、少しずつでも根源的な「何か」を探し表現し続けています。宮元啓一教授のご指導の元書いた大学の卒業論文のタイトルは、『世界美術史という見方』でした。前半は世界史から西洋美術史、東洋美術史を踏まえて論じ、後半は現代美術、特に日本の現代美術についてまとめました。根源的な「何か」を見出す指針は、大学時代に培われ、この卒論にまとめられた礎の上にあります。そして、今回はその卒論の続きを随筆としてまとめましたが、こうして卒業後の発展についても継続的に発表の場を与えてくださる母校には、重ねて感謝の念が耐えません。
私のアーティストとしての人生は始まったばかりです。これから、今まで以上に大きな困難が幾度も待ち構えているでしょう。私と同世代のアーティストは数多くいても、同世代のアート関係者はまだまだ数少ないです。未来のアート業界をつくっていく若い世代の時代はこれからです。大学で恩師から学んだことや、卒業後も引き続き学び続けていることを糧にしながら、自分なりに現代日本人としてのリアルな表現を突き詰めていこうと考えています。
2008年12月3日 長田 哲